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心の整理は定期的にやった方がいいし、感情を出せる場所はあった方がいい

つぶやき

先日、「なぜ今の仕事をするようになったのか」という質問をされました。

そういえば、久しぶりにそんな質問してもらったな〜〜。私自身に関する質問なんて、最近されていなかったな〜と気づきました。(自虐です(笑))

プロフィールにも書いていますが、いくつかの草鞋を履いてフリーランスでお仕事をしているのですが、その一つ一つのお仕事の詳細は書いていません。

実はアロマセラピスト、しています。

質問の今のお仕事とはアロマセラピストに関してだったので、なぜアロマセラピストになったのかについて少し書いてみようかなと思います。

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のちにアロマに触れるきっかけとなったコトバ

そもそも私がアロマに触れるきっかけとなったのは、「父の死」でした。

少し暗めの話になりそうなので、明るさを求める方はどうぞ別の機会の時に読んでいただければ・・・

これから書くことは、実ははじめて人に話します。これを誰かに話すのになんと10年以上もかかりました(笑)

当時私は実家を出て一人暮らし(正確には+猫1)をしていました。

実家とは車で30分ほどしか離れていなかったのですが、ごくごくたまに帰るくらい。好き勝手やらせていただいていました。

当時OLをしていた私は、期末手当(臨時ボーナス的なもの)をもらったので父と母に食事をご馳走しようと夕飯に誘いました。

父の知人のお店に食事に行ったのですが、久々に会った父の顔は黄疸が明らかにわかるほどでした。

でもとっても元気。

父に、「さいちゃん(父からもそう呼ばれていました)がごっつぉ(ご馳走)してくれるなんて珍しい!(笑)」と言われたので

私は、「これが最初で最後かもよ?(笑)」と言いました。

食事中、父が「最近ちょっと体調がよくないから明日病院に行ってくるよ」と言いました。

黄疸に気づいたことは私はなぜか父には言えず「そうね、若くないんだし体調悪いなら早く病院で診てもらったほうがいいよ」と冗談まじりに言いました。

翌日、父はそのまま入院することになりました。

来年の桜は一緒に見られない

数日後、「一緒に病院の先生の診断を聞いてほしい」と母から電話があり、とても嫌な予感がしたのを覚えています。

病院へ行き、先生はこう言いました。

「来年の桜の花は見れないと思ってください」

それは、4月の中旬でした。病院の周りは桜が満開でした。

頭が真っ白になったと同時に、コブクロの「桜」が脳内ヘビーローテーションしていました。

冷静なのか、動揺しているのか、私ってこういう人間なんですよね・・・。

父の病気のことは誰にも話しませんでした。というか、話せなかった。

友達がいない訳ではないんです、ただ、改めて思うと、「辛いよ、悲しいよ」って素直に吐き出せる人は周りにいなかった。

いや、私がきっと壁をいつも作っているんですね・・・。

仕事帰りは毎日病院に寄りました。

私が病院に着く時間は、もうすでに夕飯が終わったくらいの時間。でも父は毎日私のために、その日に出るデザートを取っていてくれていました。

プリンとかヨーグルトとか、バナナとか・・・。当時私はもう30過ぎてましたよ?(笑)

ある仕事帰りのお見舞いの日、病室で父が見ていたTVで尼崎で起こった脱線事故のニュースが流れていました。

今朝まで元気だった人が、ある日突然死を迎えることへの悲しみと辛さをそのニュースを見ながら感じた日でした。

弱く小さくなる父を見るのは辛かった

父は日に日に弱くなっていました。病室からトイレに行くのも一人で行けなくなっていました。

ベッドから起き上がろうとした時に、自力で起き上がれなかった父の肩を私が支えた時に、父は私にこう言いました。

「さいちゃん、ごめんね」

あー、これも初めて言うな・・・。母にも未だに言ってない。

こんな弱くて小さな父を見たの初めてでした。

食欲がないと言っていた父が「レーズンパンが食べたい」と言ったので、家でレーズンパンを焼いて持って行きました。

食パン1斤、もちろん食べきれないのはわかっていたけど、私の前では「おいしいおいしい」と言って食べていました。

その後聞いた話では、私が帰ったあと看護師さんたちに「娘が焼いたパン美味しいからみんなで食べて!」とあげていたそうです。

まぁ、食パン1斤分だもんね。病人じゃなくても、食べきれないわ(笑)

ある日、父の体調がいつもより良い日がありました。

どうやら食欲も出てきたらしく、「病院食は美味しくないから、下のレストランでみんなで夕食を食べに行こう」と急に誘ってきました。

病院内には、お見舞いの人や外来の人向けのレストランが併設されているのですが、そこでなんと父は「ハンバーグ定食」を注文しました(笑)

気持ちとは裏腹に、やはり完食は無理だったようで・・・。しかもその後、ちょっと気分が悪いと言ってトイレに立ったのです。

どうやら全部もどしてしまった様子でした。無理して食べたのね、きっと。

それが、最後の家族一緒の食事でした。

一時退院、そしてあっけない別れ

翌日、一時退院が許されました。

家に戻って来た父は、なんと日中散歩までできるくらい元気だったようです。

家のすぐ近くだけですが、当時うちにいたゴールデンレトリバーのジョンと一緒にお散歩をしたそう。

その翌日の土曜日、容態が急変して救急車で病院に運ばれました。

私は電話で呼ばれて病院へ行きました。

覚悟をするように言われました。

しばらくして容態が落ち着いたので、一旦帰宅するように言われ私はとりあえず家に帰りました。

夜11時過ぎ、12時近くだったかな・・・

容態が急変したと電話があり、すぐに病院に行きました。

人の命が消えていく瞬間を初めて見た日でした。

いつも当たり前にいる人、お父さん。

お父さんがもういない。

「ご飯ご馳走するの、最初で最後かもね」って、私があんなこと言ったからだって・・・。

ほらね、やっぱり私ってこんな人間。

父が死んでしまったその時に、こんなことを思えてしまう余裕があるのか、冷静さなのか・・・。

あー、結局、父の亡くなるまでの話をしていたら、話がアロマセラピストになるまでたどり着けなかった。

需要はないかもしれないけれど、この続きはまた次に。

なんだかこれは、私自身の心の整理に繋がっているみたいです・・・。

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この記事を書いた人
sai
sai

昭和、平成、令和と生きながら、フリーランスでいくつかの草鞋を履いてお仕事しています。
何度もいろんな手帳術を試した結果、映えない手帳が一番使いやすいというところへ落ち着きました。

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コメント

  1. Fujico より:

    自分と重ねちゃったよ、Saico〇ん。

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